お金が価値をもたない世界

昨日はいつもお世話になっている沼田邸というところで、なにやら集まりがあるとの事で呼ばれて行ってきました。沼田邸とは古民家で短期貸し別荘型宿泊施設をやっているところで、先日の結婚のお祝い会もそちらでやってもらいました。
行ってみるとなにやらたくさんの人。よくわからないまま、われわれまったり~村から2人(って人間は2人しかいないけど ^^;)、近くで同じくらいの時期に新規就農した若者夫妻2人が、30人くらいの都会からの方々?の前で話すことに。自己紹介とこのような暮らしをしている理由、というところでしょうか。
突然だったので、なにやら良くわからない話をしてしまい、せっかく遠くからいらっしゃった方々に申し訳ないことをしたなあと、後悔。ざんげも兼ねて、後から思い出したことをこちらに書かせていただきます。
はじめたときと今では考えも多少変わってきましたが、この生活をしている理由は「生きる力」を思い出したいからかなあ、と思います。創造する力、感動する心、そういうのが自然と接することによって少しづつでも開放されていくような気がします。
たとえば、将来、お金が価値を持たない社会がやってくる可能性も否めません。
災害であったり、食料や石油などの輸入のストップなど。
電気、水道、ガス、石油などがお金があっても使えなくなるとします。
都会で生活している多くの人は、パニックになったり、行政にどうにかしてもらおうとして不行き届きの場合には憤慨するなどではないでしょうか。行政も緊急の事態であれば細かく行き届いてまで対処しきれないのは明らかです。
そんなときに、今、ここ里美村や各地の昔ながらの知恵を持っている年配の方は
「しょうがね~な~、ちっと不便だけど、昔の生活に逆戻りか」とか言いながら、
裏山から薪を持ってきて火をおこし、川から水を汲んで必要であれば炭などで浄化し、自分の畑や蓄えている米などでなんとか1年くらいは持ちこたえられるのではないかと勝手に想像できてしまいます。
昨日「将来はみんなが少しでも自分が食べる食物を生産するという作業にかかわってもらいたい」といったのは、自然に接することで生物としての「生きる力」が少しでも芽吹き、都会で暮らそうが田舎で暮らそうが、個人それぞれが、自立した関係で相互依存できる社会が理想だと思ったからです。
また、水や空気や食料が無ければ生きていけない、というのは理解できるのですが、
人間が作った「お金」というシステムに縛られて
「お金が無くては生きていけない」というのがどうも理解できないのです。
「やりたいことをやっていたらどうにかなる」「ならなかったらならなかったで、またそれもどうにかのうち」ということで、まったり~村の日々はまったり~と、はたまたぐったり~と、そしていつかはばったり~と(!?)過ぎていくのでした・・・。
(K)